曇のち晴

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ヌーベルフランス

 英語にすればニューフランスで、新大陸に建設したフランスの植民地のことである。

 フランスは、スペインとイギリスに次いで探検を行った。1523年にフランソワ1世の支援でジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが北西航路を探すために、アメリ東海岸を航海した。

 1534年にジャック・カルティエセントローレンス川河口部で入植を試みる。1564年にはフロリダ半島でも試みられたが、いずれも成功しなかった。

 恒久的入植は、アンリ4世の治世の1608年にサミュエル・ド・シャンプランが、ケベックを建設したのが始まりである。1642年には、モントリオールでも入植が始まる。その奥の五大湖も探検される。

 1670年にイギリスがハドソン湾会社を設立すると、フランスは南北をイギリス植民地に挟まれる形になった。毛皮市場の相当部分をイギリスに奪われたことになる。ここまでは、すべてカナダでの話である。

 ロベール=ガブリエ・ド・ラ・サールは、オハイオ川とミシシッピ川を下って、1682年にはメキシコ湾へ到達する。この流域は、時の王ルイ14世にちなんでルイジアナ命名される。

 1688年にはテキサスに進出するが、1年で追い出された。スペイン継承戦争の局地戦であるアン女王戦争を経て、1712年には現在のメーン州の部分をイギリスに割譲する。

 1754年には、オハイオ川流域の毛皮交易を巡って、西進したイギリスと軍事衝突し、フレンチインディアン戦争に発展する。この頃のヌーベルフランスの人口は7万5千人、対する13植民地は150万人だった。

初期は有利に戦いを進めたが、戦火が広がると息切れを起こす。1760年には本拠地のケベックシティ及びモントリオールが降伏する。1763年のパリ条約において、ミシシッピ川より東側はイギリス、西側はスペインに割譲することになり、北米大陸での領土はすべて失われた。