曇のち晴

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ニューネーデルランド

 オランダが新大陸に設立した植民地のことである。

1610年以降、毛皮取引のために商人が盛んに本国から訪れていたが、定住はしなかった。彼らの活動は「ニューネーデルランド会社」に統合される。

議会は手元の探検地図を基に1614年に領有を宣言し、入植も試みられる。当初の範囲は北緯38~45度線内と、1607年にイギリスがヴァージニア会社(プリマス)に出した特許状の内容と完全に被ってしまう。

 国策「西インド会社」が設立され、ニューネーデルランド会社の事業を引き継ぐ。1624年には現在のニューヨーク市で恒久入植が始まり、ニューアムステルダムを建設する。と同時に、1620年にはイギリス人がプリマスに入植していたこともあり、範囲を北緯38~42度に狭める。

 入植は、ハドソン川デラウェア川、コネチカット川に沿って行われる。総督府が置かれたニューアムステルダムを中心に、ハドソン川沿いが最も繁栄した。

 1638年にはデラウェア川の西岸にスウェーデンが進出するが、本国の北方戦争で首が回らなくなった状況を利用して、1655年にはニューネーデルランドに併合される。

 コネチカット川流域は、英領マサチューセッツ植民地から大勢の入植者が西進することになり、この地を実効支配することになる。1650年にはニューネーデルランド総督が東の境界線を、現在のニューヨーク州コネチカット州の境界線と近似した位置に設定することで妥協する。

 植民地政府は防衛力の整備を要請するが、本国の西インド会社はそれを無視する。1664年にイギリスの艦隊の襲撃を受けるが、軍備の手薄さゆえに無抵抗のうちに植民地を明け渡す。第三次英蘭戦争の一環でオランダは1673年に再びこの地を占領するが、戦争自体には負け、翌年の講和条約により占領地を手放すことになる。

 以後、ニューアムステルダムはニューヨークと改められ現在に至るが、オランダがこの地で築いたものは合衆国に引き継がれる。オランダ建国の際に宣告された信教の自由をはじめとする様々な権利は、イギリス占領後も守られることが確約され、その精神は合衆国憲法等にも反映される。

 13植民地のうちペンシルヴァニア、ニュージャージー、ニューヨークがオランダの支配を経験した。