曇のち晴

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本国の”毒親化”

 13植民地独立の直接原因は、イギリスとフランスが戦った七年戦争である。

本国イギリスは戦争に勝利したものの、満身創痍の状態だった。

戦場はヨーロッパのみならず、アジア・アフリカ・南北アメリカと全世界に及び、

7年もの長期に及び、国の金庫は底を突いた。

本国の内閣は次々と増税案を提出し、帝国議会はそれを承認した。

僻地(植民地)でも確実に徴税するために役人と軍隊を派遣して、本気度を示した。

 

 こうした動きに13植民地は反発した。

そもそも、好き好んで税金をたくさん払おうとする人など、まずいない。

でも最大の問題は、植民地側が議論に加わる権利(参政権)がないことだった。

本国が植民地の意見を訊く機会を設けずに、矢継ぎ早に義務(税法)を押し付けるのだ。

自分たちが選んだ代表が多数決で決めたことと、独裁者が勝手に決めたことでは、同じ内容でも受け止め方は変わる。

権利を奪って、一方的に義務ばかり押し付ける姿勢に不信と警戒感が強まった。

のびのびと子育てしていた親が、急に毒親へ変化したように映ったのである。

 

軍事

アメリカは世界最強の軍事力を持っている。

150ヵ国以上に駐留し、世界の空母の2/3に当たる11隻を保有している。

地球を6管区に分け、各区の統合軍司令官が陸海空軍を有機的に運用している。

ノウハウと、地球のどこででも即臨戦態勢に入れるのが、強さの秘密である。

 

 海兵隊は、海外での有事に斬り込みを行う先鋒隊であり、その後、陸海空軍がスムーズに任務を遂行できるように道を整えるエリート集団である。

陸海空全ての機能を持ち合わせており、太平洋戦争で日本に占領された地域を取り戻す際に、大きく貢献した。硫黄島の戦いも、日本軍と海兵隊の戦いだった。

 

 州兵は州知事の指揮下にあり、災害派遣や治安出動に当たる。有事には大統領の指揮下に入って、アメリカ軍に編入される。

 

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テキサス共和国の樹立

 辺境の地テキサスを繁栄させるべく、スペインと後のメキシコ政府は、アメリカからの移民を誘致した。スティーブン・オースチンの斡旋で、1823年に300組が入植した。1世帯当たり4000エーカー(約16㎢)の与えられ、納税の義務もなかった。その反面、カトリックへの改宗が条件で、奴隷制憲法で禁止された。

 アメリカで起きた1819年恐慌の影響もあり、あっという間に25,000人以上が入植した。メキシコ人が4,000人なので、アンバランスである。アメリカ政府からは度々テキサス購入の話もあり、メキシコ政府はアメリカを警戒して新規入植を禁止した。さらに免税を廃止し、有名無実だった奴隷禁止を徹底しようとした。それでも、アメリカからの不法移民は後を絶たなかった。

 不満はピークに達し、アメリカ人入植者は1835年に蜂起する。メキシコとの戦いでは、サミュエル・ヒューストンの指揮の下で勝利する。翌36年にはテキサス共和国を樹立し、彼は初代大統領に就任する。

 オースチンの名前は現テキサス州の州都に、ヒューストンの名前はテキサス州最大の都市の名前になる。

 

スペイン領テキサス

 1685年に、フランスがミシシッピ川河口に入植しようとしたことが始まりである。ところが地図が不正確なため、実際ははるか西方のテキサスに辿り着いたという事故がきっかけである。スペインが艦隊を派遣した際には、既に入植地は消えていた。

 恒久的入植は1690年以降、教会が伝道所を次々に建設する形で始まる。1818年にアメリカ合衆国がフロリダを購入した際には、テキサスがスペイン領であることが確認されている。

 1821年には、主権はスペインから独立したメキシコに引き継がれるが、住民は2200人ほどに過ぎなかった。入植を促進するため、隣国アメリカ合衆国から移民を募集することになる。

フランス領ルイジアナ

 五大湖からメキシコ湾にかけての領域で、現在のルイジアナ州よりもはるかに広い範囲である。ミシシッピ川の水系とほぼ一致する。1682年にロベール=ガブリエ・ド・ラ・サールが時の王ルイ14世にちなんで命名した。

 1659年の五大湖探検や1673年以降のミシシッピ川探検は、太平洋に通じる水路を発見する点では失敗した。1690年以降に恒久的入植が始まるが、現在も有名な都市としては1701年にカディヤックがデトロイト砦を築いたことと、1718年にミシシッピ川河口にニューオリンズが建設されたことである。ちなみに、カディヤックの名は、デトロイト発祥のGM高級車のブランド「キャデラック」に採用される。

 全体的に本国やフランス植民地からの輸入に頼る経済体制だった。ミシシッピ川下流域は黒人奴隷を使役して、プランテーション農業による輸出が行われたが、本国に大きな富をもたらせなかった。人口・軍事力が不足していたので、先住民には譲歩・共存を図った。1763年に東側はイギリス、西側はスペインに割譲される。

 1801年に西側はスペインから返還されるが、1803年にアメリカ合衆国へ売却される。

 

ヌーベルフランス

 英語にすればニューフランスで、新大陸に建設したフランスの植民地のことである。

 フランスは、スペインとイギリスに次いで探検を行った。1523年にフランソワ1世の支援でジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが北西航路を探すために、アメリ東海岸を航海した。

 1534年にジャック・カルティエセントローレンス川河口部で入植を試みる。1564年にはフロリダ半島でも試みられたが、いずれも成功しなかった。

 恒久的入植は、アンリ4世の治世の1608年にサミュエル・ド・シャンプランが、ケベックを建設したのが始まりである。1642年には、モントリオールでも入植が始まる。その奥の五大湖も探検される。

 1670年にイギリスがハドソン湾会社を設立すると、フランスは南北をイギリス植民地に挟まれる形になった。毛皮市場の相当部分をイギリスに奪われたことになる。ここまでは、すべてカナダでの話である。

 ロベール=ガブリエ・ド・ラ・サールは、オハイオ川とミシシッピ川を下って、1682年にはメキシコ湾へ到達する。この流域は、時の王ルイ14世にちなんでルイジアナ命名される。

 1688年にはテキサスに進出するが、1年で追い出された。スペイン継承戦争の局地戦であるアン女王戦争を経て、1712年には現在のメーン州の部分をイギリスに割譲する。

 1754年には、オハイオ川流域の毛皮交易を巡って、西進したイギリスと軍事衝突し、フレンチインディアン戦争に発展する。この頃のヌーベルフランスの人口は7万5千人、対する13植民地は150万人だった。

初期は有利に戦いを進めたが、戦火が広がると息切れを起こす。1760年には本拠地のケベックシティ及びモントリオールが降伏する。1763年のパリ条約において、ミシシッピ川より東側はイギリス、西側はスペインに割譲することになり、北米大陸での領土はすべて失われた。

 

イギリス社会の一員としての経済活動②

三角貿易

 三角貿易といえば、イギリス・アフリカ・西インド諸島(銃・奴隷・砂糖)を結ぶ三角形、そして奴隷貿易の禁止後はイギリス・インド・清(綿製品・アヘン・茶)が有名だが、イギリス・西インド諸島・北米13植民地(工業製品・砂糖と奴隷・農産物)というルートも開発された。一方通行ではなく、双方向の貿易である。

 アメリカは西インド諸島から黒人奴隷(労働力)を輸入する代わりに、米などの食料を輸出した。イギリスは工業製品をアメリカへ輸出し、代わりにタバコや材木を輸入した。

イギリス社会の一員としての経済活動①

航海条例(航海法)

 貿易収支が黒字になることを重視する重商主義に基づき、保護貿易が推進され、一連の航海条例が1651年以降制定される。外国商人との取引を禁止して市場から締め出すことにより、国内から富が流出するのを防ぎ、逆に国外からは富を吸い上げることが目的である。

さらにタバコ、米、さとうきび、インディゴ等を植民地と外国が直取引することも禁止し、植民地の富が本国に集まるようにした。一方で植民地には、船の建材となる材木の生産を割り当てた。

 植民地側に圧倒的に不利な経済鎖国政策だが、本国から5000km離れた植民地を厳正に管理することは不可能だった。本国から派遣された役人に賄賂を渡すことにより、堂々と密貿易を行えた。

外国との密貿易により、植民地経済は発展し、彼らは本国の製品を沢山買ってくれる上客になった。今でこそ先進国では高給取りだが、役人は薄給で、賄賂を取らないと生活が成り立たないのが現実だ。本国・植民地が双方が潤うウィンィンの状態は、「有益なる怠慢」と呼ばれる。

17世紀のイギリス

 13植民地の歴史を語るうえで、本国の歴史は避けて通れない。植民地の特許を複雑にしたのが、度重なる政変である。

 1639~60年に及んだイングランド内戦のクライマックスが清教徒革命である。チャールズ1世が1649年に処刑され、清教徒オリバー・クロムウェルを中心とした共和政府にとって代わる。

 彼の死後、1660年に王政は復古し、処刑されたチャールズ1世の長男チャールズ2世と次男ジェームズ2世が統治する。

 1688年には名誉革命によってジェームズ2世は退位に追い込まれ、娘婿のウイリアム3世がオランダから迎えられる。

 3つの政変により、4つの支配体制が存在したことになる。植民地は本国で革命が起こるたびに、新しい政治体制から認可を再取得する必要が生じたのである。認可が取り消されたり、逆に新たな植民地が認可されたり、複数の植民地が統合されたりと、様々な変化がもたらされた。

統治者の名前を順に挙げるとエリザベス1世ジェームズ1世、チャールズ1世、護国卿クロムウェル、チャールズ2世、ジェームズ2世、ウイリアム3世となる。

 

ニューネーデルランド

 オランダが新大陸に設立した植民地のことである。

1610年以降、毛皮取引のために商人が盛んに本国から訪れていたが、定住はしなかった。彼らの活動は「ニューネーデルランド会社」に統合される。

議会は手元の探検地図を基に1614年に領有を宣言し、入植も試みられる。当初の範囲は北緯38~45度線内と、1607年にイギリスがヴァージニア会社(プリマス)に出した特許状の内容と完全に被ってしまう。

 国策「西インド会社」が設立され、ニューネーデルランド会社の事業を引き継ぐ。1624年には現在のニューヨーク市で恒久入植が始まり、ニューアムステルダムを建設する。と同時に、1620年にはイギリス人がプリマスに入植していたこともあり、範囲を北緯38~42度に狭める。

 入植は、ハドソン川デラウェア川、コネチカット川に沿って行われる。総督府が置かれたニューアムステルダムを中心に、ハドソン川沿いが最も繁栄した。

 1638年にはデラウェア川の西岸にスウェーデンが進出するが、本国の北方戦争で首が回らなくなった状況を利用して、1655年にはニューネーデルランドに併合される。

 コネチカット川流域は、英領マサチューセッツ植民地から大勢の入植者が西進することになり、この地を実効支配することになる。1650年にはニューネーデルランド総督が東の境界線を、現在のニューヨーク州コネチカット州の境界線と近似した位置に設定することで妥協する。

 植民地政府は防衛力の整備を要請するが、本国の西インド会社はそれを無視する。1664年にイギリスの艦隊の襲撃を受けるが、軍備の手薄さゆえに無抵抗のうちに植民地を明け渡す。第三次英蘭戦争の一環でオランダは1673年に再びこの地を占領するが、戦争自体には負け、翌年の講和条約により占領地を手放すことになる。

 以後、ニューアムステルダムはニューヨークと改められ現在に至るが、オランダがこの地で築いたものは合衆国に引き継がれる。オランダ建国の際に宣告された信教の自由をはじめとする様々な権利は、イギリス占領後も守られることが確約され、その精神は合衆国憲法等にも反映される。

 13植民地のうちペンシルヴァニア、ニュージャージー、ニューヨークがオランダの支配を経験した。

カロライナ おまけ

 実は1629年に最初の特許状が出ており、チャールズ1世がロバート・ヒース卿に与えたものには北緯31~36度線に挟まれた範囲と記載されていた。実際には入植が行われず、特許は失効したが、文言だけは残った。

 実際の入植が伴う1665年の特許状では、北緯29~36.5度に拡大され、1653年に建設されたアルベマール植民地は、いつの間にかカロライナに編入されていたのだ。さらに北緯29度線はスペイン領フロリダの土地に掛かっていた。実際は、フロリダより西側の未開の地についての許可だが、合衆国建国後、フロリダの部分も合衆国が手にする権利があると解釈する輩が現れる。

ジョージア植民地

 南北カロライナとスペイン領フロリダに挟まれた土地は、1733年に入植の始まり、時の王ジョージ2世の名前にちなむ。

 博愛主義者で構成される評議委員会によって創設された植民地は、借金返済ができずに投獄されてた人たちを救済する理想郷となるはずだった。

奴隷制度の防波堤となるべく、大土地所有や土地投機の禁止、奴隷労働の不要な絹を織る作業を入植者に強制するなど、理想先行の政策を実施する。飲酒も禁止された。

 こうした運営は、本国での借金地獄から抜け出せた入植者だけでなく、隣接する英領植民地からの反発も招く。

1750年には奴隷制が合法化され、稲作プランテーションの大農園が次々と誕生する。

1752年に評議員が特許状を国王に返還したときには、典型的南部スタイルが浸透していた。

 理想郷の建設という夢物語のようなプロジェクトが認可された背景には、裕福なサウスカロライナ植民地をスペイン領フロリダから守るための緩衝地帯が必要となった事情が関係している。本国にとって、債務返済不履行のために投獄された”ろくでなし”共は、スペインからの防波堤として適切な人材だった。

カリフォルニア

 太平洋とシエラネバダ山脈に挟まれた地域は、1510年に発表されたスペインの小説に登場する理想郷(Califia)から名前がとられた。

 1542年にスペインがフアン・ロドリゲス・カブリリョに探検させたのが始まりで、

入植は、1697年にカリフォルニア半島イエズス会の伝道所が設立される形で始まる。

 1767年以降は、フランシスコ会を介して、北半分への入植が促進される。サンフランシスコという地名も、この修道会の名称に由来する。イギリスの西進とアラスカ経由でロシアが南下していることに対するスペイン本国の危機感が背景にあった。

 1821年には、スペインから独立してメキシコとなるが、敵は英露ではなく、アメリカだった。開拓者が次々と流入し、戦争にまで発展する(米墨戦争)。1848年にアメリカは戦利品として北半分を獲得し、現在に至る。

 ロサンゼルス、サンフランシスコ、サンディエゴ等、今もスペイン語の地名が多いのは、上記の歴史に起因する。

スペイン領フロリダ

 北米大陸で最初に探検・入植したのが、フロリダ半島である。

1513年に、スペインのファン・ポンセ・デ・レオンが上陸した。

先住民の頑強な抵抗に遭い、入植はなかなか成功しなかったが、

1564年にフランス人が恒久的入植に成功する。

地理上の要所ゆえに、フランス・イギリス・スペインの利権が対立するが、

短期間英領となったことを除き、スペイン領として認識される。

しかし、地の利と統治力の弱さが災いして、周囲から「セミノール」と呼ばれる先住民と黒人奴隷の逃亡者が大量に流入し、治安が悪化した。

1821年にはアメリカ合衆国に売却され、現在に至る。

 現在のフロリダ州は、カリフォルニア、テキサスに次いで全米で3番目に人口の多い州である。

 

おまけ

 英領となった18世紀後半に領土が西に拡大され、従来の領土が東フロリダ、ミシシッピ川までの沿岸部は西フロリダと呼ばれる。

 

 

北米探検 プロローグ

 この節には重要な内容が含まれないので、軽い気持ちで読み通して頂いて構わない。

 

 北米を最初に探検したのは、イングランドの支援を受けたジョン・カヴォットで、

1497年にニューファンドランド島を発見している。

残念ながら、大陸でなく島であるところが泣き所である。

 

 アメリカ合衆国建国の地である東海岸を最初に探検したとされるのは、

フランスの支援を受けたジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノで、1524年のことである。

沿岸部をちょこちょこ寄港しただけのせっかちな航海というのが実態で、

大陸探検という観点からすると、上陸したとは言い難いテキトーな内容である。

むしろ翌年にエステバン・ゴメスがスペインの依頼によっておこなった探検の方が重要である。その成果は東海岸を描いた最初の地図となり、その正確さゆえに大いに重宝された。